生協知っトクコラム

2024/04/01

第13号 正常性バイアスを解き放つものは

 幼児期の強烈な思い出の1つに「幼稚園での避難訓練」がある。「本当の火事が起きたと思って、ベルが鳴ったら何も持たずに庭に逃げてね」と事前に言われていたが、同じ組の女の子は、いったん外に出た後、部屋に引き返して自分のハーモニカを取ってきた。すると、ふだんは優しい年配の先生が「なんで取りに帰ったの。本当の火事だったら、〇ちゃん焼け死んでたよ!」と女の子を怒鳴りつけた。その剣幕に女の子は真っ青になって地面にへたり込んだ。当時4歳だった私は、先生の激しい怒声と「焼け死ぬ」というワードが恐ろしく、「訓練なのにどうしてそこまで厳しく言うのかな」と女の子に同情的な気持ちも持った。だがその一件で、「一刻を争う時は、モノに執着していたら命取りになる」ということを叩き込まれた。その場にいた数十人の園児全員が同様だったと思う。大人になって思い返すと、命を大切にしてほしいという、先生の深い愛情だったと実感する。

 今年の元日に発生した能登半島地震で、NHKアナウンサーが強い口調で避難を呼び掛ける映像を見て、幼稚園の先生を思い出した。いつもは穏やかな女性アナウンサーが「今すぐ逃げること!」と気迫に満ちた声で伝え、SNSでは地震情報とともに「NHKアナウンサー」がトレンド入りした。後日、それら断定調の呼び掛けが、2011年の東日本大震災後、NHKの全国のアナウンサーの意見を基に作られたものであることを知った。
 同局のアナウンサーへのインタビュー記事によると、東日本大震災でも、「安全な高台に逃げてください」「海に近づかないでください」とくり返し呼び掛けたが、強いトーンではなく冷静な口調だったといい、アナウンサーの1人は「避難を呼び掛けてもなかなか届かなかった」と振り返っていた。NHKでは災害報道の訓練を重ねているそうで、元日に流れた「テレビを見ないで逃げてください」という言葉も訓練から生まれた言い回しだったという。

 奈良大学(奈良市)の村上史朗教授(社会心理学)は、能登半島地震時のNHKアナウンサーの口調について「非日常的なことが起きているということがよく伝わってきた」と高く評価する。村上教授によると、災害が発生するとパニックが起きると思われがちだが、実際はそうでもなく、むしろ「これまで起きなかった災害はこれからも起きないだろう」と感じてしまう「正常性バイアス」がはたらき、避難しないケースが多いことの方が問題という。東日本大震災の前年に起きたチリ地震の際、避難指示や勧告が出た地域の住民の避難率はわずか3.8パーセントだったそうだ。
 村上教授は、「日常、私たちは周囲のあらゆる情報の大部分を予測の範囲内で捉え、処理している。この予測ができるから、私たちは日々混乱せずに生活できている。正常性バイアスは人間の適応的な機能の副作用といえる」とひもとく。

 誰の心の中にもある正常性バイアス。いざという時に解き放つコツはあるのだろうか。村上教授は「非日常の場面で『でもまだだいじょうぶ』との思考になったら、『そういえば、正常性バイアスという感じ方があったな』と思い浮かべてほしい」と話す。「よく言われることですが、逃げて何もなければ笑い話で済むだけ。逃げない選択によってけがをしたり、命を落とす想像を積極的にはたらかせてほしい」(同教授)。
 また、逃げ遅れが発生するのは、1人の時よりも集団の中にいる場合の方が多いとの研究結果もあるという。村上教授は「大勢でいる時の方が正常性バイアスから抜け出すのは難しい。お互いに出方をうかがううちに、時間が経つ傾向もある」と指摘。「集団の中にいても正常性バイアスについて思い出してほしい。そして、避難を指示すべき立場の人、たとえば商業施設の放送担当の人などは、ふだんの口調ではなく、NHKのように感情に訴える呼び掛けをしても良いのでは」と提案する。

 人の感情にダイレクトに響き、強く判断を促すのは、何よりも、思いがこもった人の声ではないだろうか。AIアナウンサーが入れない領域は確実にある。

(文・青木理子)

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