2022/10/01
第7号 ペット愛の行方
LINEのアイコンがいつの間にか犬や猫になっている人がいることに、ある日ふと気付いた。コロナ禍となってから、ペットを飼い始めた知人たちだ。長く続く閉塞感の中で、生き物に癒されたい思いはとてもよく分かる。私自身、疲れた夜は、ふわふわした動物の動画を見ながら眠りに落ちることが多い。
一方、最近気になっているのは、元ペットと思われる外来生物の話題だ。5月、琵琶湖で体長1メートルのチョウザメが見つかったというニュースはインパクトがあった。チョウザメは淡水に生息する古代魚の仲間で「生きた化石」と呼ばれる。現在、日本国内で養殖以外のものは生息していないはずで、大きさから推測するに「数年掛けて飼育した上で放流されたか、逃げた」可能性が高いという。生きたまま引き取った滋賀県立琵琶湖博物館はツイッターで「飼育魚は逃がさないように、最後まで責任を持って飼うようにお願いします」と呼び掛けていた。
チョウザメが自分で琵琶湖に逃げてきたとは考えにくい。誰かが何らかの事情で飼えなくなり、「死なせてしまうよりは」と、本人(チョウザメ)の幸せを願いながら琵琶湖に放したと考えるのが自然だろう。
そういえば子どもの頃飼っていたインコが、10センチほど開いた窓から外へ出て行ってしまった際、私も「さびしいけど、外で自由に暮らした方がインコにとっては良かったのかもしれない」などとお花畑的な納得の仕方をしていた。大人になって、「野生化したインコが大群となり、大きな鳴き声で近隣住民の生活を脅かしている」などという記事を読み、インコを逃がしてしまったことは罪作り以外の何ものでもなかったとようやく分かった。
「外来生物問題」というが、生き物自体に罪はなく、結局人間が何らかの形で介在し、生き物を違う地に住まわせてしまっているだけなのである。強い生命力を持つ者たちは、新天地で生き残り、在来種を駆逐していく。いずれそのしっぺ返しは人間にも及ぶかもしれない、だから生き物を人為的に移動させるのはやめるべき。それは説明をしたら多数の人が理解する理屈だ。
ところがこの問題のやっかいなところは、「じゃあ、その理屈を通すために目の前で生きている生き物(外来種)の命はないがしろにしても良いのか?」という感覚なのではないだろうか。とりわけペットとして飼っていた場合、注いでいた愛情も深いだろう。
大阪府HPの「動物を引き取ってほしいとお考えの方へ」というページには、「助けられるのはごく一部であり、多くの動物は『殺処分』せざるを得ない状況です」とあり、「相当な理由がない限り、ペット動物の引き取りを行っておりません」と強調している。
大阪市立自然史博物館の和田岳主任学芸員は、「飼いきれなくなったら放すという行為は、動物愛護法違反であり、放した個体が生き延びれば外来生物問題を引き起こす。一方で、放された大部分の個体は生き延びない。とても無責任な行為と考えています」と話す。
同博物館は2020年、外来生物問題の基礎知識を広く知らしめ、地域の自然をどう未来に残していくかを提起する特別展「知るからはじめる外来生物~未来へつなぐ地域の自然~」を開催した。和田学芸員は同展の解説書の中で「外来生物問題は、最初に外来生物を少数放すだけで、個人で簡単に引き起こすことができる。とても簡単にできてしまう身近な自然破壊。それが外来生物問題なのです。それだけに、1人1人の自覚がとても重要になります」と訴えている。
ところで私はお恥ずかしいことに、外来生物=外国から来た生き物だと長らく誤解していた。国内の他の地域から来たものも外来生物で、外国からのものと同じようにその地域の生き物に重大な影響を与えてしまう。外見もほとんど同じように見えることなどから分かりにくいが、持ち込まれた生き物によって、地域に元からいた固有の生き物がいなくなる可能性が出てくる。外来生物問題は幅広く、奥深い。
まずは自分たちが大事に飼育している(していた)ペットたちとは別に、どんな地域にもずっと前から棲み着いている生き物たちがいることを想像してみることが重要ではないだろうか。その姿勢が、生き物を愛し、命を大切に考える第一歩なのだと思う。
(文・青木理子)
ペットとして輸入されたものが遺棄され、日本各地で見つかっているカミツキガメ。今のところ関東の河川や湖沼などで定着が確認されている。今後、関西でも定着が確認されるかもしれない。
(大阪市立自然史博物館の和田岳主任学芸員提供)